IE9ピン留め

しゃんばらへようこそ!!
はい、そこのあなた、いまこの画面を見ている「あなた」です。
この度はご訪問いただきありがとうございます。
残念ながら、すでに更新をストップしています。

ブログが移動していますので、下記サイトをクリックして愛読者になって下さい。

● しゃんばら  http://shambala43.exblog.jp
● ビジネス知恵ちゃん http://chiechan1.blog43.fc2.com/


ご案内
この「しゃんばらへようこそ!!」は、しばらくしたら閉鎖します。
昨年4月からの記事をぜひ手元に持ちたいという希望がございましたら、
PDFファイルをお渡し致しますので、直接私にお声がけ下さい。
私が誰か知らない愛読者の方がいらっしゃれば、この記事のトラックバックや
コメントにリンクを張り、私から連絡をとれるようにして下さい。
# by shamballa1 | 2006-01-01 00:10


フィナーレ(完)
 すでに年が明けていますが、ブログのあり方について少し考えるところがあり、すでにご案内している通り、 「ビジネス知恵ちゃん」 を始めているし、この 「しゃんばらへようこそ!!」 は閉鎖することにしました。12月のカレンダーが全部埋まったら 「しゃんばらへようこそ!!」 はもう更新しません。こう決めたのは私自身なのですが、終わるとなったら寂しいもので、どうも心残りです。
 このところ3つのことを考えたり行ったりしていました。1つは、昨年4月から始めた記事を読み返していたことです。懐かしい思いです。1つは、あらためて自分の価値観、仕事や生活のスタイルについて噛みしめていたというのか、もう一人の自分がいて、へぇ~こんな人間なんだなこの人はと、観察していたというのでしょうか。そして最後の1つは、ユニークさを表現するってとても効用があるなと気づいたということでしょうか。それは少なからず愛読者の皆さんがいるし、自分の胸の中でも整理できるものがありましたから。
 知人に、 「ビジネス知恵ちゃん」 だけになると、 「しゃんばらへようこそ!!」 のファンは離れていく気がすると言われました。ショック! スタイル(コンセプト、文体、形式など)をがらりと変えましたから、まるで別人が書いているような印象を受けるからでしょうか。
 これはいかんと思ったのです。かつて自分が創造したスタイルを、何故閉鎖しようとしているのかと自答しました。他に理由があり、それを解消さえすれば、 「しゃんばらへようこそ!!」 の灯火を消す必要はないと思ったのです。
 もともと 「しゃんばら」 は、理想郷をあらわします。私の理想郷を、私のものの見方で描いてみたい、そんな原点に立ち戻りたいのです。
 ということで、新しいブログ 「しゃんばら」 が復活します!!
# by shamballa1 | 2005-12-31 00:10 | ビジネスモデル


フィナーレ(2)
 今までになかった価値が初めてもたらされると嬉しいものです。若い頃、交際していた女性との通信は、私たちの世代は、電話や手紙でした。一人暮らししていなければ、電話は一家に一台でしょう。だからまず相手の親がでます。○○子さん、ご在宅でしょうか、と話さなければならない。かけているこちら側にも親が近くにいるので、愛情を語るような際は気恥ずかしいものです。手紙とは文通でした。
 いつしか携帯やメールの時代となり、価値がもたらされたと感じます。ですがそう感じるのは、一家に一台の電話や文通していた経験を若い頃に持っていたことで、それと比べてということなのです。
 価値はあればあるで、時とともに当たり前のような気になってしまいます。昨今の東京証券取引所のシステム障害のように、当たり前のインフラに急に障害が生じてしまうと、多大な被害をもたらしてしまいます。
 あの人は自己中だとよく使います。私に言わせれば、人間は基本として自己中心的な存在なのであって、 「あの人は自己中だ」 と言っているあなたも自己中なのです。もちろん程度の差はあります。ですが皆自己中なのだから、自己中のネガティブなところばかり強調せずに、ポジティブにとらえようではありませんか。
 私もそうです。自己中の核心は、もたらされている価値は、あって当然、そして今後も続くだろうという期待感でしょうか。誤解なさらないで欲しいのですが、私はこの心のありように警鐘を鳴らそうなんて説教じみたことを考えているのではありません。心とはそういうものだという前提で、どうせ私もあなたも自己中なのだから、急にその価値がなくなったらショックでしょ、だからいつかなくなることがあり得るという観点から心の準備をしておきましょうね、と言いたいだけです。
 私は欲を充たすことは良いことだと思っていますから、ますます価値について敏感になっていきます。きちんと感謝もします。そして創造的な視点で、もっと大きな価値をもたらしたり、もたらされたりするにはどうしたらよいかを考えてしまいます。
 フィナーレとは、そのようなことをあれこれ行なう時間なのかもしれません。一度幕が降りても、アンコール、アンコール、と声が響きわたりますね。コンサート会場のあの聴衆の心は何でしょうか。よかったよ!!(深い価値の実感)、感動をもらった、ありがとう!!(演者への感謝)、願わくばもう一度聴かせて欲しい!!(価値の真髄の再来への期待)、こんなのが込められているのでしょう。
# by shamballa1 | 2005-12-30 00:10 | ビジネスモデル


フィナーレ(1)
 冬のソナタの前半のどこかの話で、ユジンがミニョンに、 「今までそばで息をしていた人が急にいなくなったときの悲しさがわかりますか」 という台詞をいうシーンがあります。インパクトが強く心打たれるシーンです。
 「今までそばで息をしていた人」 = 価値、と考えますと、価値は急になくなると悲しい、となります。でもなくなるものは致し方がないと仮にしましょう。ならば、なくなるということが事前に分かっていなくてはなりません。 「急に」 が困るということです。
 この記事を入れて後3日分で 「しゃんばらへようこそ!!」 の更新をストップしますが、最後のスレッド名をフィナーレとしました。私流の定義は、フィナーレとは何かが終わるという雰囲気、と考えています。
 誰もが知っていることです。人が亡くなるときに、最後を看取るといいます。看取る時間があるから悲しさが少しでも和らぐのです。これが急にだったらどうでしょうか。その瞬間は緊迫していますが、後に魂が抜けたような深い悲しみ包まれるはずです。看取る時間はフィナーレなのです。
 そう考えたときに、フィナーレとはどのような機能なのか、当事者はフィナーレにあたり何を感じたり、考えたり、どのような対処をするべきなのでしょうか。そんなことを思い、雑駁ですが書き綴ってみたいと思います。
 結論だけ先に述べておきたいと思います。フィナーレでは、1つ、価値を深く実感すること、1つ、価値が自分にもたらされたことに感謝すること、1つ、価値の真髄に新しい命を与えるにはどうすればよいかを考えること、でしょうか。
# by shamballa1 | 2005-12-29 00:10 | ビジネスモデル


人と逢う(完)
 逢う以上、相手を大切にする、これが基本です。もう私は40歳を越えましたから、大切にできない人とは “最初から出逢いません” 。よくある名刺交換会とか、異業種交流会とかが大嫌いなのには理由があります。大切にできない人に “誤って出逢ってしまうから” です。このポリシーを持っていてほんと良かったと思います。持たずに “誤って出逢ってしまった人” と時間を共にしていったらどうなりますか。親密にもなれず( “だらだらした人間関係” と表現しておきましょう)、その使った時間は、別に親密になれる人との機会を奪ってしまうのです。
 ですから人と逢うとは、ほんとは相当な覚悟がないといけません。相手を大切にするという意思です。人は感情の生き物ですから、親密になった人との間であっても、様々な感情がもたげます。最近、昔のMBA仲間と一緒に仕事をしているのですが、彼は独立したばかりです。口は達者なのですが、アウトプットを作るという技術や経験がないので期待しているものが出てこないのです。私はこれでも経営コンサルタントして10年のキャリアを持っています。口で大風呂敷を広げても、経営コンサルタントは、アウトプットを出して何ぼのものという厳しい世界で生きながらえてきたので、彼の仕事にあたる姿勢が甘いと感じ不満を覚えます。
 そのような時なのです。相手を大切にすると覚悟を決めて逢っている人なので、アウトプットのスペックや内容コンセプトを丁寧に説明して作成してもらうように明確に要望を出します。“誤って出逢ってしまった人”なら、即座に切るでしょう。それがビジネスだと思います。
 ビジネスでなくても感情のねじれというのは発生するものです。それでも根に持たれるよりは、感情をぶつけられる方が嬉しいです。何度も言いますが、相手を大切にすると覚悟の上で逢っています。解消できない気持ちの問題というのはないはずなのです。コミュニケーションに努めることです。しかも互いにそのコミュニケーションを大切にする。私は、人の信頼関係とはそのようなものだと思います。
# by shamballa1 | 2005-12-28 00:10 | 価値


人と逢う(2)
 これまで逢ったことがない人で、その人と親しくなるのは、普通は逢ってどれだけ時間を使ったかによると考えるでしょう。つまり親密度と時間は比例するということです。確かに、よくお話しているうちに、その人の人となりも分かってきますから、その通りなのかもしれません。
 ところが現実には、初対面で意気投合するというケースが起こります。一目惚れという言葉があります。一目見ただけで心をひかれるという意味です。これが両者に起こると、男女なら恋に落ち、ビジネスでならまるで何年も一緒に仕事してきた仲間かのように感じるというのでしょうか。不思議なものです。これは時間に比例したものではありません。ケミストリーであったり波長であったりします。その適合度なのです。
 2つの考え方を示しましたが、私の実感では、年齢とともに後者のウエイトが高まってくる気がします。後者の場合にはどんな心理が働いているのかと考えています。仮説ですが、共感力と未知への憧れだと思います。
 相手はそれなりの経験をしてきているなと、逢って少し話すだけで伝わってくるものがあります。それが自分の経験と似ていたり、似てはいないがどうしてもその話を聴きたいと思う場合、ぐいぐいと惹かれます。当然、相手が私にもそう感じてくれないといけないのですが、この “空気” というのでしょうか、これがあれば、ほんとすぐに親しくなるものです。親密度の濃い人間関係をどれほど広く持っているかを、一般に人脈というのであれば、時間より適合度で関係をとらえた方が人脈形成の効果が高いと思います。
 さらに不思議なことは、決して同じ人生の力量だから惹かれあうということだけでもないのです。経営者どおし、経営の喜びや苦労を知っているから、初めて逢っても互いに共感できて親密になれる、このパターンは真っ当ではありますが、これだけではないということです。この “同質” がではなくて、 “異質” が適合度を高めるケースもあります。私が、しゃんばらのビジネスで最も核心だと思っている、中年の男性と若い女性の組み合わせは、 “異質” が適合度を高める典型例だと感じています。互いが相手に “未知なるもの” を感じているのです。
# by shamballa1 | 2005-12-27 00:10 | 価値


人と逢う(1)
 ただ知り合いだというだけで一緒に時間を過ごす、最近はこうもしていられなくなりました。もちろん初めて逢う人ならなおさらです。
 お断りする際に、私は努めて、忙しいからとは言わないようにしています。予定している時間が区分されていて(全部埋まっている訳ではありません)、その一コマにアポを入れるかどうか判断しているのです。時間があるけど逢わないと決めることもあります。時間は有限ですから、人と逢って話すとしても、どうしても人を選ぶことになります。
 若いとき、目上の方に逢ってもらおうとアポを取ろうとすると、いま仕事で忙しいから時間が取れそうにないと何度も言われたことがあります。今から思えば、これは半分正しく、半分正しくないのです。このメッセージの本質は、お前は逢うに値しないと判断している、と言われているに等しいのだと思います。私が価値のある人物ならば、その人は逢って時間をくれていたと思います。老婆心ですが、このような時に若者は謙虚になった方が良いと思います。よく、少しぐらい話してくれてもいいじゃないか、忙しいっていうけど時間あるんじゃないのかと、すねてみたり逆ギレをおこす人がいるようですが、それは見当違いです。やがて時を経て自分がその立場になれば分かります。
 何に時間を使っているかで、その人が何を重視しているかがわかると言われます。それは人にも当てはまります。自分から観て価値を感じている人が(仕事で尊敬できる諸先輩方であったり、旧知の中で人間関係のできている知人たちであったり、家族や愛しい人であったりします)、自分に逢ってくれるのに時間を使ってくれるかということです。これはバロメーター(物事の状態を推測する目安となるもの)です。その結果は誠に正直なものだと思うのです。
 自分を基点として、人から、又は人に、価値を感じられたり感じたりして、逢って時間を使うかどうかが決まるのです。この人と逢う時間とはどのようなことなのか、このスレッドでは考えてみたいと思います。
# by shamballa1 | 2005-12-26 00:10 | 価値


新年の雰囲気(完)
 「しゃんばらへようこそ!!」 は4月から始めたのですが、残念ですが冒頭の結果となりました。私はブログを始めるにあたり、一貫させようと思っていたことが何点かあります。1つは、毎日更新です。ネタ不足や時間不足で毎日の更新はできなかったけれど、12月31日まではカレンダーの全日が埋まっています(予定)。ひとまず達成です。1つは、カテゴリー構造、それに合わせたコンセプト、そして文体の統一です。これも乱れはしなかったと思います。最後の1つは、メッセージはポジティブで前向きであること。他者に優しい視点であることを心がけました。この結果は読者が評価して下さるでしょう。
 ブログで予期せぬことが、小さいことまで含めるといろいろ起こります。1つは、一見さんの訪問でしょうか。それも業者と思われる人。トラックバックに何度もエッチサイトを張られました。もちろんすぐに削除しています。何かしらの関係が見えたらそのままにするという方針をとりました。あと1つは、書き手の私が変化したということでしょうか。当初匿名でスタートしましたが、気分が良くなってきて、顔もわれたし、随分プライベートなことをべらべら書いてしまいました。これは良くないと途中で気づきました。最後は、書き続けることによって自分が自分に気づくというのでしょうか、それは自分の言葉遣いであったり、発想の癖であったり、です。思ったことを書くというのは効用があるなと実感しました。
 新年の雰囲気の中で、ブログの内容を抜本的に変え、来年は(すでに今年になっていますが)それを固める、と思った次第です。
 12月のカレンダーが埋まるまで、もう少し続けますので応援して下さい。
# by shamballa1 | 2005-12-25 00:10 | 理念


新年の雰囲気(2)
 新年の挨拶をいろいろな人から聞いてみると、今年は “変化” や “攻め” をキーワードに掲げる内容が多いと感じます。丁か、半か、と博打ではありませんが、丁、丁、丁と賭けが続いたら、よし半だと勝負に出る。別にこのような感覚からではありませんが、私の新年にかけるキーワードは “固める” です。
 まぁ、なんと地味な男だと思われるかもしれません。ウケはよくないのですが、よく考えてみて下さい。地に足の着かない行動がいかに浅薄なものか。私は昨年まで3年間の厄年の間、身に沁みて感じたのです。四字熟語で活を入れると、脚下照顧、というところでしょうか。地歩を固めるというのでしょうか、自分の立脚点を確かなものにしたいのです。
 自分とは何者か、しっかりと見つめ固める。ふわふわ動かない。新春名刺交換会とか世間ではやっていて、今では若い人も出会いや人脈を求めて参加しています。私は、そういう風景を見て底が浅いと感じます。もちろんそのような会に行こうとも思わない。
 出逢った人との関係も固める。刹那なつき合いは大嫌いです。長く信頼関係でありたい。付き合いのスタイルに多様性があってもいいと思います。だけどもこのスタイルでと決めたら、その人とは長くその関係を保つ。ころころ自分のスタイルを変えたりしない。
 見識を固める。好奇心は確かに大切です。だけども気をつけねば、雑学がやたらと増えたが見識がない、こんな人間になってしまう。これはどうしても避けたいです。一般に“攻撃は最大の防御なり”と言います。この言葉が必要なときがあり、それを必要としている人がいるでしょう。だけども私は選択しません。 “全身全霊の防御だからこそ地歩を固めることができる” と言った方が今の私の気持ちに近いのです。
 人それぞれ人生ステージが異なる訳で、「私の」 新年の誓いを大切にしたいです。
# by shamballa1 | 2005-12-24 00:10 | 理念


新年の雰囲気(1)
 いつか恩師の一人から、大晦日はこの1年を静かに内省し、新年をどのように生きるか構想する日であると教えられました。ストイックな人だったから、紅白歌合戦などを見て浮かれている場合ではないと教えたかったのでしょう。
 物理的には、いつもと何も変わらない夜から朝への時間の流れですが、年が明けるというだけで厳かな雰囲気になります。人間というものは、意味に生きるものだとつくづく感じます。
 私は、大晦日は格闘技を観て浮かれていましたので、翌朝は特段の心の構えみたいのは持っていませんでした。これをよく考えてみたのです。20代はですね、今年の10大ニュースとか自分史を作っていました。1年を閉じることに材料があった。当然新年の誓いも立てていましたから、元旦の朝になってみると、さぁやるぞと意欲が湧いてきました。
 今は、何というか、そんなに力まずに自然体で新年を迎えることができるようになりました。さぁやるぞと意欲が今でも湧いてきます。だから幸せに生きているのでしょう。そこに新年の雰囲気を味わうという余裕が出てきました。そういう目で周囲を見渡すと、この2,30年間で生活から無くなっていったものがいかに多いかを知らされます。
 例えばお餅です。今でも正月に餅を喉に詰まらせて亡くなる高齢者が必ず出ることだけは続いています。ですが餅つきはどうでしょう。私が子供の頃は、餅つきを親類が集まってやりました。もちろん家の外で。時折、子供に臼(うす)の餅を杵(きね)でつかせるということが団欒でした。やがて自動餅つき機が家庭に普及し、いつしか餅つきはなくなりました。
 自動餅つき機だって、家族で分担して作っていました。家の中でやる作業だけども、年に1回のタスクだから珍しかったし、これも家族の団欒でした。いまでも使っている家は多いでしょうが、現在人の発想は “作るのが手間だから買ってきたほうが早い” となっています。このような状況下になって、あらためて餅つきの体験をしてみたいという思いが出てきます。人間って不思議なものですね。
 まぁ、こんな雑駁なことを、このスレッドではつらつらと綴ってまいりましょう。
# by shamballa1 | 2005-12-23 00:10 | 理念


本と暮らす(完)
 よく若い人に指導したものです。書店には特徴がある。その特徴を肌感覚で知っておくべきだと。私の分類では、書店経営者には素人と玄人がいます(ここで述べる素人・玄人は、業績や経営内容の優劣ではなく、何と言いましょうか、本に対する思い入れとかこだわりとかいうニュアンスで使っています)。素人には、馬鹿と利口がいる。素人の馬鹿の書店は見るに耐えない。間違って入ってしまったのだから、とっとと出るに限ります。よくある典型例は、何年も前に出版された本をあたかも最近出版されたかのように平積みしているというケースです(もちろんテーマを基準にしてそのように置く場合のことを述べているのではありません)。私はこんなの詐欺だと思う。
 素人の利口の書店は、要はどのように活用するかでしょう。これもよくある事例ですが、例えば文庫本で、出版社別にではなく著者別にご丁寧にも並べてくれている書店があります。分類のやり方だから、うちはこうなのだと言われればそれだけのことですが、はっきり言って迷惑です。著者を探して読書は本を購入すると考えたのはわかる。確かにそういうお客もいるでしょう。でもね、 「出版社の色」 という奥床しさを、この素人書店経営者は分かっていない。岩波文庫、新潮文庫など、そこにどんな人がどんな内容のものを書いているのだろうか、この楽しさを奪われているような気がして不快な気分になるのです。
 玄人と素人の違いは、一言で述べると、扱っている本の良し悪しを目利きできるかということでしょう。いくら玄人的といっても商売だから売れる本を売るのは常道です。だけどもその上で目利きのこだわりが随所にあらわれている書店には、何度も訪れたくなるものです。玄人は、プッシュとプルに私は分類しています。プッシュの事例は、本の紹介をしてくれるお店です。針金の先に紙が取りつけてあり本の内容についてコメントが書いてあります。あれ、結構購買に影響すると思うのです。
 プルの事例は、ほんとこだわりの書店に行くと、なんでこの本がこのコーナーにあるのだろうと驚かされたり、ほら、同じ本が2,3冊並んでいたりすることがありますね。手に取れよ、俺のメッセージだと言わんばかりに並べてあることがあります。見えないメッセージですが、吸い込まれていきそうです。そして手に取る本がなかなかの良書であったりします。
 以上の分類に入らないのは、いわゆる大型書店と呼ばれるもので、これは、網羅性をとことん追及すればよし、これが私の結論です。私は、隅から隅まで新刊書籍をチェックします。そして買いたい本を抜き出していく。両手で持てなくなるぐらいです。そうなったら、覚めた目で再度手に取った書籍を一つひとつ検討してみる。ここがポイントなのです。大方2/3はやはり買わないでおこうとなります。
 出版社と著者で大方その本の内容はわかるようになりました。要は読者も目利きできるかということではないでしょうか。
# by shamballa1 | 2005-12-22 00:10 | 顧客


本と暮らす(2)
 よく人に語りますが、30代の読書と言えば、ビジネス・経済書が殆どでした。仕事を通じて鍛えられた10年間でした。欲したのは、とにかく論理(=フレームワーク)や経営・経済の情報でした。大学院にも行きましたので、アカデミックな理論書も多く読みました。経営コンサルティングの仕事を遂行するなかで、役に立つフレームワークは、学びながら即使ってみたというやや乱暴なこともやっていました。
 左脳が重たくなってきたなと40歳を越えたときに感じました。バランスを取ろうと右脳を使う必要性を意識したのです。学生時代は小説といえば、殆ど歴史ものでした。吉川英治、司馬遼太郎、などは多く読みました。最近も小説を読んでいますが、文学を嗜むようになったのです。文学の定義を私は詳しく知りませんが、このように認識しています。文学とは、世間、社会、さらには人生を、 「まともでも常識でもない視点」 から眺めて、人間の本質に迫る学問だと思います。この 「まともでも常識でもない視点」 というコンセプトで物事を観るというのが、今では楽しくてたまらないのです。
 もちろんビジネス・経済書を捨てたわけではありません。けれどむやみに買わなくなりました。本には、良書とそれ以外がある。この最も単純な認識にやっと辿り着けた心境です。ここから得られる示唆は、いかに 「それ以外」 に手を出さないか、これに尽きるということです。裏を返せば、これまで幾多の 「それ以外」 の本を買って読んできたことでしょうか。良書なるものを知らなかった。私が不明でした。
 良書というものはこのようなものだと言葉でなかなか話せません。す~っと吸い込まれていくような、時を忘れて三昧(さんまい)になれるというのでしょうか、そのような魅力を持つ本が確かにあります。考え方がしっかりしている、情報量が多いなども要因でしょうが、それだけで良書とは言えないでしょう。
 良書を見抜くのはセンス。私の理想は、書店で本に手が少し触れただけで、これが良書かいなか瞬時に分かるというものです。霊感ではございません、念のため。
# by shamballa1 | 2005-12-21 00:10 | 顧客


本と暮らす(1)
 小さい時からよく本を読んでいました。お正月やお盆には、昔はよく親里に親戚が集まったものです。母は長女だが兄がいて母の実家の家長であり、この家に兄弟姉妹の家族がやってくるのです。私は子供ですから、多くの従兄弟・従姉妹がいるのですが、皆、外で遊んでみたり、おしゃべりして過ごしています。ですが私は、一人静かに本を読むのが好きだったのです。社交的ではなかったでしょう。
 とりわけ世界偉人伝記というのが好きでした。エジソン、コロンブス、ファーブル、キュリー夫人、野口英世、など片っ端から読んだ記憶があります。読んでいてわくわくしました。同じ年の従兄弟からは、あいつは暗い性格だ、(外で遊ばないから)ひ弱いとか言われ、叔母たちからは、た~ちゃん、本ばっかり読んでたら目悪うなるでと心配されたりもしました。大きなお世話だ、こうしている方が楽しいしいろんな事を知ることができる。文字もちゃんと見えると内心で反発していました。
 人生40年を越えて、本と向き合って暮らしてきたとも言えそうで、そこから多くの事を会得してきた訳ですが、その恩恵たるや簡単に言葉で言い表せないものです。今回の3話完結のスレッドでは、本と暮らす私の知恵をほんの少しですが披露してみたいと思います。
 まず書棚については是非とも語ってみたいです。大阪の実家で私があてがわれた勉強部屋は狭かったから、本が増えれば増えるほど置く場所に困りました。大きな書棚を置くスペースもなく、買った本は積読(つんどく)状態でした。これはこれで何とも味のある光景なのですが、1つ不便なのは、本の背表紙が見え難くなるので、奥の下の方に積まれている本は、時間が経過すると、どこに何があったか忘れてしまいます。
 いつか近所に住まれていたある大学教授の書斎に案内されたことがあります。先生の書棚を見て感動して思わず涙ぐんでしまいました。3メートルほどあるのです。上の方にある本は踏み台に乗って出し入れされていました。これだ!と思いましたね。こんな書棚に自分の蔵書をすべて並べて爽快に全体をとらえられたら、さぞ幸せだろうなと思いました。
 私は、本にカバーをして書棚にしまう人間を許せないのです。それも書店で包んでもらうあのカバーで。まず背表紙が見えないから何の本か分からないという機能的な理由が1つです。もう1つの理由は、本を外に持ち出して読むならブックカバーというのは分かりますが、家の布団で寝る際に服を脱ぐように、書棚に入れる際はカバーは取るのが礼儀というものだと思うことです。
 家を新築して、今ではそれなりの書棚を手に入れましたが、長い道のりでした。
# by shamballa1 | 2005-12-20 00:10 | 顧客


温泉の宿(完)
 温泉についてです。社交はもはや受けない、そう思います。扉温泉(明神館)で堪能しましたが、温泉の宿のマネジメントで、いま現場はどうなっているのかというと、いかにお客とお客を合わせないかということが工夫されているのです。基本は個室化です。露天風呂も各部屋についている。部屋で快適に過ごすことが喜ばれています。もはや宴会の大広間や遊技場(卓球がいまでも多いね)などは激減しているのではないでしょうか。
 最初は、不便だなと思いましたが、よく考えてみれば、これがお客どおしを会わせない1つの仕掛けかと感心しました。扉温泉(明神館)は松本駅から車で3,40分の距離ですが、シャトルバスが、往路は松本駅から15時発、復路は扉温泉(明神館)から11時発なのです。ちなみにこの温泉宿のチェックイン・チェックアウト時間は、15:00-12:00です。このシャトルバスは無料です。でも乗ると入と出をあわせて2時間ほど “損” をします。時間いっぱい堪能しようと思えば、往復のタクシー代約1万円を支出しなければなりません。この仕組みで運用されていますが、利用状況は半分半分だとか。これで、チェックイン・チェックアウト時に他人と顔をあわすことは少なくなるのです。
 客の立場から、あまり喜べないのが、チェックインとチェックアウトの時間でしょうか。今でも頑なに15:00-10:00を守っている温泉宿があります。何か別に魅力がなければ、これからはお客に見向きもされなくなるでしょう。一般に、顧客ニーズは後ろにズレる傾向にあります。私のように昼過ぎから入りたいという人もいるかもしれませんが少数派でしょう。星のや は良い事例になると思います。都内で仕事して最終の新幹線に乗って軽井沢へ。翌日はゆっくりと滞在して下さい。そんな顧客を想定しています。
 食事の時間だって、よく考えれば、夕食は18時にとか、朝食は8時30分までに、どこそこの場所にいらっしゃって下さいなどと言われるのは、ある意味、顧客からみれば厄介なことでしょう。深夜でも好きに食べられる。ブランチという選択肢もあります、などのサービス提供は不可欠だと感じます。
 料理も価値は、品数と量ではなくなっています。サプライズが必要となっています。いかに驚かしてくれるか、その辺りが重要な視点でしょう。
 今後も、ますますお客のニーズが多様化すると高度化していきます。温泉宿はプライドを持って価値の創造と提供に努めて欲しいです。良い市場が形成されると思いますから。
# by shamballa1 | 2005-12-19 00:10 | 市場


温泉の宿(2)
 まず温泉それ自体について考えます。これも人によって好みや嗜好があるので、私の個人的な意見でしかありませんが、温泉の価値とは、自然の中に湯を感じること、と考えています。私が嫌いなのは、一般に “大衆浴場” と言われるものです。近所の銭湯を大きくしただけじゃないかと感じるのです。
 私は温泉宿の温泉に、機能的な価値は求めてはいません。機能的な価値とは、一般に “温泉の効能” と呼ばれるものです。温泉の湯の中に含まれている成分は、直接肌に作用したり、皮膚から吸収されて中には内臓や神経まで影響を及ぼすとも言われていますので、泉質ごとに温泉がもたらす効果があるとされます。硫黄泉とか、含鉄泉とか、です。何でもいいです。こんな分類を覚えようという気にもなりませんし。
 細かい指摘だと言われそうですが、 “大衆浴場” の風呂場のコンセプトが気に入らない。なぜ “体育座り” しなければならないのでしょうか。お尻を底におろして,両足を揃えた状態で山型にして、これを両手で抱え込んで座るのです。空いてくると脚を投げ出せはできるとは言え、そもそもあの浅い作りかたに不満を持ちます。
 飾りのように設置された露天風呂というは、それがあるだけで失望感が漂います。確かに “露天” だ。けれど外にあればいいというのは、誠に乱暴な設計だと思います。私が価値を置いている “自然” はどこにありますか。自然との一体感というのが重要なのであって、また扉を開けたら “大衆浴場” に戻るというのでは幻滅してしまいます。私の求めているイメージを写真で表現しましょう。どちらも実際に行ってきました。
 乳頭温泉(鶴の湯)は、闇世の中に仄かな明かりがあり当然周囲は雪景色です。扉温泉(明神館)は、立ち湯というコンセプトで正面の自然と内側の境がなく気持ちよい開放感を感じます。 これが温泉だ! と思います。
# by shamballa1 | 2005-12-18 00:10 | 市場


温泉の宿(1)
 もうすぐ43歳となる年齢ですから、これまで温泉には何度も行きました。今からスレッドは3話完結でいきます。今回は温泉の宿について語りたいと思います。
 人によって好みや嗜好があるので、温泉の宿とはこうあらねばならない、という議論はしたくはありません。けれども最近の温泉宿は、随分と昔と異なったものになってきていると感じます。意見として述べるのは構わないでしょう。温泉の宿を市場(=マーケット)ととらえてみましょう。それは、サービスを提供する側と楽しむ側の関係であり、その実態です。自ら体験したことに意見や感想を交えてみたいと思います。
 まず、典型的な温泉の宿のイメージを想定したいのです。私は男性ですから、女性から見ればそれは違うと思われるかもしれませんが、しばらく辛抱して下さい。3つの形態があると思います。1つは、湯治型です。鄙びた地方の温泉宿が想像されるでしょう。湯治とは、 「温泉に浴して病気を治療すること」 です。識者によると、その目的から、疲労を回復さえる 「休養」 、健康を保持し病気を予防する 「保養」 、病気の治療をする 「療養」 の3つに分類することができ、これを 「温泉の三養」 と言うのだそうです。じぃちゃん、ばぁちゃんが湯に浸かっている風景でしょうか。お猿さんも入っていたり。
 もう1つは、宴会型と名づけましょう。私は、社会人になって最初に勤めた会社の慰安旅行は温泉でした。大広間で “the宴会” が繰り広げられるのです。ここにおいて大切にされるのは、酒を交えたコミュニケーションです。その環境として温泉宿はもってこいの場所なのです。
 最後の1つは、うまくコンセプトを言い現せないのですが、単純に食事型としておきましょう。温泉宿で供される料理を楽しみにやってくるお客が多くいます。上げ膳据え膳と言います。何から何まで人の世話になって、自分では何もしなくてよいから、一般に、お母さんは喜びます。
 以上3つのイメージで、各々大切にされる価値はと言えば、順に、温泉それ自体、社交、そして料理でしょう。だってそれを目当てにお客さんは来るのですから。けれど、あくまで中心的な価値ですから、それだけでは利用者は満足しません。いくら温泉が立派でも、料理が不味ければ不満となるのは容易に想像できます。従ってひとまずここでは、温泉の宿が提供している価値とは、この3つがあるのだと分類する程度に考えて下さい。
 昨今では、この3つの価値は大いに深化しているという印象を受けています。次回でその話をしましょう。
# by shamballa1 | 2005-12-17 00:10 | 市場


食べものあれこれ(完)
 こんなことを誰も言いませんが、いつも心の中で思っていたことがあります。写真を掲げておきました。韓国の冷麺です。日本の焼肉店で注文しても、この写真にほぼ似たり寄ったりしたものが出てくるでしょう。思っているというのは、韓国の食べものというのは、なぜこんなに美味しくなさそうなのか、ということです。
 味について文句を言っているのではありません。私、韓国の冷麺は嫌いではありませんし、食べてみると美味しいと思います。気になるのは、あの見た目の美しくなさなのです。物議を醸すと本意ではないので表現に気をつけていますが、はっきり言って不味そうに見えます。色がくすんでいるのも原因でしょう。冷麺だけではありません。韓国の料理は、大方こんな感じです。でも誰も、不味そうに見えると言いません。くどいようですが、中身が美味しいことを否定しているのではありません。
 日本の料理は、対比して美しい。なぜこれほど見た目に格差があるのでしょうか。一つの文化論に発展しそうですが、余力もないので止めておきます。
 先日某所で和食をいただきました。器や盛り付け、小さな宇宙というか、何もかもが美に花を添えています。素材と料理は確かに主要因です。だけども本来の美味さというのは、それをも包含する複合的な総合美ではないでしょうか。
 最後に、韓国の食べものは美味しくいただいています。あくまで見た目がということだけです。
# by shamballa1 | 2005-12-16 00:10


食べものあれこれ(5)
紅茶はミネラルウォーターで飲んだ方が美味しい

 いつしか日本は水道水不信になっていまいました。一度誰か、水道水とミネラルウォーターの飲用心理の研究というものをやってくれないでしょうか。端的に言えば、水道水を飲まなくなりました。少なくとも飲むとなれば一度沸騰させます。近頃では浄水器ビジネスも盛んですが、その機能は分かっても、もとは水道水だろうと思ってしまいます。塩素を飛ばすだけだというのにです。
 私の理解では、水道水は軟水です。そして通常、料理をするといえば軟水を使います。だから水道水でも何の問題もないのですが、ミネラルウォーターを買って、日常はこれを飲んでいるのが現状です。
 だからと言って、紅茶を飲むのに 「エビアン」 を使う人はまずいないでしょう。硬水だからです。 「南アルプスの天然水」 あたりが適当なのです。硬度が低いから良いのです。カフェインやタンニン、この紅茶独特の成分は、軟水だから溶かし出されます。これが紅茶が美味しいと感じられる原因です。しかも色も鮮やかだし。
 だけども水道水で紅茶飲むって抵抗感あるな。単に贅沢なだけなのかしら。
# by shamballa1 | 2005-12-15 00:10


食べものあれこれ(4)
鰻と梅干は食べ合わせが良くない

 ヤフー知恵袋というサイトに、 「鰻と梅干は本当に食べあわせが悪いんですか? 又それは何でなんですか?」 という質問が寄せられていました。ある人が、この質問に対して、以下のような回答をしています。

 迷信なので必ずおなかをこわすということはないのですが、色々な解釈があるようですね。
・熟していない梅干は、種の中にアミグダリンがあり、青酸という毒に変わってしまうようです。それを一緒にうなぎと食べた人がおなかをこわしたのではないかという説
・脂っこいものを食べた時に梅干などのさっぱりしたものを口にすると更に食べれてしまうので食べ過ぎてしまう説

 私はこの方の後段の解釈が妥当だろうなと思っていました。他にも調べてみましたが、 「鰻と梅干は食べ合わせが良くない」 というのは迷信だと思います。ただ一つ学べることは、あの栄養価の高い鰻を食べ過ぎるのは良くないということでしょうか。美味しい鰻はパクパク食べてしまいますから。
 梅干に限らず、口直しの効用が働いて、ついついなのです。
# by shamballa1 | 2005-12-14 00:10


食べものあれこれ(3)
飲んだあとに、ラーメンを食べると二日酔いにならない

 私はお酒をさほど飲まないので、昔から知人たちの行動が不思議でなりませんでした。飲んだ後に(私は食べるが中心ですが)ラーメン食べに行こうというのです。私はたらふく食べている訳だから、なぜこの上にさらにラーメンなの!? という感覚ですが、飲む連中は嬉しそうにそうしています。
 一応理屈は知っています。人間が肝臓でアルコールを分解するとき、エネルギーを使うため血糖値が下がります。そのとき体は、下がった血糖値をもとに戻そうと、糖分を要求するため炭水化物を必要とするからです。糖分が不足すると二日酔いになりやすいですから。
 頭では理解できても、付き合わされる私としては、そんな時によく出てくる実にこってりしたラーメンを見ると、ぐえっ~となります。さらに知人は、ラーメンに上にたっぷりとおろしニンニクをかけるのです。
 確かに理には適っている。ニンニクの成分といえば、たんぱく質と糖質、ビタミンCなどの各種ビタミン、ミネラルで、特徴的なのが、生理活性物質スコルジンというのが含まれていて、新陳代謝を高めて疲労回復に効果を発揮するのです。
 知ってはいるけど、飲んだ後は早く帰って寝ましょうよ。
# by shamballa1 | 2005-12-13 00:10

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