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カテゴリ:理念
  • 新年の雰囲気(完)
    [ 2005-12-25 00:10 ]
  • 新年の雰囲気(2)
    [ 2005-12-24 00:10 ]
  • 新年の雰囲気(1)
    [ 2005-12-23 00:10 ]
  • 意味のある軽さ(完)
    [ 2005-11-28 00:10 ]
  • 意味のある軽さ(5)
    [ 2005-11-27 00:10 ]
  • 意味のある軽さ(4)
    [ 2005-11-26 00:09 ]
  • 意味のある軽さ(3)
    [ 2005-11-25 00:10 ]
  • 意味のある軽さ(2)
    [ 2005-11-24 00:10 ]
  • 意味のある軽さ(1)
    [ 2005-11-23 00:10 ]
  • 天祐を待つ(完)
    [ 2005-10-23 00:10 ]


新年の雰囲気(完)
 「しゃんばらへようこそ!!」 は4月から始めたのですが、残念ですが冒頭の結果となりました。私はブログを始めるにあたり、一貫させようと思っていたことが何点かあります。1つは、毎日更新です。ネタ不足や時間不足で毎日の更新はできなかったけれど、12月31日まではカレンダーの全日が埋まっています(予定)。ひとまず達成です。1つは、カテゴリー構造、それに合わせたコンセプト、そして文体の統一です。これも乱れはしなかったと思います。最後の1つは、メッセージはポジティブで前向きであること。他者に優しい視点であることを心がけました。この結果は読者が評価して下さるでしょう。
 ブログで予期せぬことが、小さいことまで含めるといろいろ起こります。1つは、一見さんの訪問でしょうか。それも業者と思われる人。トラックバックに何度もエッチサイトを張られました。もちろんすぐに削除しています。何かしらの関係が見えたらそのままにするという方針をとりました。あと1つは、書き手の私が変化したということでしょうか。当初匿名でスタートしましたが、気分が良くなってきて、顔もわれたし、随分プライベートなことをべらべら書いてしまいました。これは良くないと途中で気づきました。最後は、書き続けることによって自分が自分に気づくというのでしょうか、それは自分の言葉遣いであったり、発想の癖であったり、です。思ったことを書くというのは効用があるなと実感しました。
 新年の雰囲気の中で、ブログの内容を抜本的に変え、来年は(すでに今年になっていますが)それを固める、と思った次第です。
 12月のカレンダーが埋まるまで、もう少し続けますので応援して下さい。
by shamballa1 | 2005-12-25 00:10 | 理念


新年の雰囲気(2)
 新年の挨拶をいろいろな人から聞いてみると、今年は “変化” や “攻め” をキーワードに掲げる内容が多いと感じます。丁か、半か、と博打ではありませんが、丁、丁、丁と賭けが続いたら、よし半だと勝負に出る。別にこのような感覚からではありませんが、私の新年にかけるキーワードは “固める” です。
 まぁ、なんと地味な男だと思われるかもしれません。ウケはよくないのですが、よく考えてみて下さい。地に足の着かない行動がいかに浅薄なものか。私は昨年まで3年間の厄年の間、身に沁みて感じたのです。四字熟語で活を入れると、脚下照顧、というところでしょうか。地歩を固めるというのでしょうか、自分の立脚点を確かなものにしたいのです。
 自分とは何者か、しっかりと見つめ固める。ふわふわ動かない。新春名刺交換会とか世間ではやっていて、今では若い人も出会いや人脈を求めて参加しています。私は、そういう風景を見て底が浅いと感じます。もちろんそのような会に行こうとも思わない。
 出逢った人との関係も固める。刹那なつき合いは大嫌いです。長く信頼関係でありたい。付き合いのスタイルに多様性があってもいいと思います。だけどもこのスタイルでと決めたら、その人とは長くその関係を保つ。ころころ自分のスタイルを変えたりしない。
 見識を固める。好奇心は確かに大切です。だけども気をつけねば、雑学がやたらと増えたが見識がない、こんな人間になってしまう。これはどうしても避けたいです。一般に“攻撃は最大の防御なり”と言います。この言葉が必要なときがあり、それを必要としている人がいるでしょう。だけども私は選択しません。 “全身全霊の防御だからこそ地歩を固めることができる” と言った方が今の私の気持ちに近いのです。
 人それぞれ人生ステージが異なる訳で、「私の」 新年の誓いを大切にしたいです。
by shamballa1 | 2005-12-24 00:10 | 理念


新年の雰囲気(1)
 いつか恩師の一人から、大晦日はこの1年を静かに内省し、新年をどのように生きるか構想する日であると教えられました。ストイックな人だったから、紅白歌合戦などを見て浮かれている場合ではないと教えたかったのでしょう。
 物理的には、いつもと何も変わらない夜から朝への時間の流れですが、年が明けるというだけで厳かな雰囲気になります。人間というものは、意味に生きるものだとつくづく感じます。
 私は、大晦日は格闘技を観て浮かれていましたので、翌朝は特段の心の構えみたいのは持っていませんでした。これをよく考えてみたのです。20代はですね、今年の10大ニュースとか自分史を作っていました。1年を閉じることに材料があった。当然新年の誓いも立てていましたから、元旦の朝になってみると、さぁやるぞと意欲が湧いてきました。
 今は、何というか、そんなに力まずに自然体で新年を迎えることができるようになりました。さぁやるぞと意欲が今でも湧いてきます。だから幸せに生きているのでしょう。そこに新年の雰囲気を味わうという余裕が出てきました。そういう目で周囲を見渡すと、この2,30年間で生活から無くなっていったものがいかに多いかを知らされます。
 例えばお餅です。今でも正月に餅を喉に詰まらせて亡くなる高齢者が必ず出ることだけは続いています。ですが餅つきはどうでしょう。私が子供の頃は、餅つきを親類が集まってやりました。もちろん家の外で。時折、子供に臼(うす)の餅を杵(きね)でつかせるということが団欒でした。やがて自動餅つき機が家庭に普及し、いつしか餅つきはなくなりました。
 自動餅つき機だって、家族で分担して作っていました。家の中でやる作業だけども、年に1回のタスクだから珍しかったし、これも家族の団欒でした。いまでも使っている家は多いでしょうが、現在人の発想は “作るのが手間だから買ってきたほうが早い” となっています。このような状況下になって、あらためて餅つきの体験をしてみたいという思いが出てきます。人間って不思議なものですね。
 まぁ、こんな雑駁なことを、このスレッドではつらつらと綴ってまいりましょう。
by shamballa1 | 2005-12-23 00:10 | 理念


意味のある軽さ(完)
 軽いからって必ずしも浅薄だとは限りません。日本の経営学で一番有名な用語と言えば、何だかお分かりでしょうか。それは、 「終身雇用」 という用語です。これ結構、意味が深いんです。
 話は飛びますが、 「官僚制」 という、これも有名な用語があります。組織が機能を果たすという意味において 「官僚制」 は優れているのです。行政機関はその際たる例だと言われています。一方“お役所的な対応”だと揶揄されるように、手段の目的化というものが働き、 「官僚制」 のディメリットだと言われています。
 同じように 「終身雇用」 にもメリットとディメリットがあります。一般に終身雇用とは、定年までの安定した雇用が保証されていること、年功序列とは地位と給与の上昇が年齢(入社からの年数)を土台にしていることを指すと言われています。ですがこの定義は、ある意味で間違いなのです。問題の箇所は 「定年までの安定した雇用が保証されていること」 にあります。保証というなら契約でしょう。定年を60歳とすれば、あなたを60歳まで雇用しますという契約があって保証されていると言えるのではないでしょうか。
 ごく簡単に述べましょう。 「終身雇用」 とは、 「定年まで安定した雇用が保証されているような雰囲気であるが実際には何も確かな契約がないもの」 なのです。会社側、社員側双方の視点に立脚しても、契約がないのですから、 「重い」 関係でなく 「軽い」 関係です。この「軽さ」が意味を持つか否かは実質的な関係に依存します。日本の社会はこの 「軽さ」 に意味を持たせたからこそ、 「終身雇用」 というのは意味深いのです。
 確かな保証はないけれども長く信頼関係の中でコミットが生まれる。私の述べたかった「意味のある軽さ」の本質です。
by shamballa1 | 2005-11-28 00:10 | 理念


意味のある軽さ(5)
 耐震強度の偽装問題で世間は騒がしいです。個人的な関心は、我が家の耐震構造は大丈夫かというものです。なにせ日本でこの建造物は唯一のものとのことで、建築士がこのリビングルームの耐震構造は自分にも分からないと言っていたのですから。
 元建築士の姉歯も、マンションなどを売ったヒューザーや木村建設も、そして確認審査で素通りさせてしまった日本ERIも、各々過失があったのは事実でしょう。被害者の皆様のご苦労・ご心痛はよく分かるし、国や行政の補償や支援も必要になってくるかもしれません。世間が騒いでいる通り、これは建築業界の構造的な問題のようです。
 私は、姉歯元建築士の証人喚問をテレビで観ました。これは不信の構造だなと直感しました。この人は、今回の件で随分楽になったのではないかとも感じました。組織と人間が不信の構造に入りますと、なんとも重苦しいのです。なかなか抜け出すことが難しいのです。発覚していなければ姉歯元建築士はきっと同じことをやり続けていたでしょうね。
 その意味で姉歯元建築士は今後も続く宿痾(しゅくあ)から抜け出せたという意味で、救われたのではないでしょうか。私にはそう思えてなりません。決して姉歯元建築士を擁護しようなどと考えているのではありません。今回の騒動の中では彼が一番人間らしいと感じたのです。
 意味のある軽さは、とても重要なのです。長く生き抜いていくためには、傷を負っても不信の構造から抜け出たことを喜ばねばならないでしょう。
by shamballa1 | 2005-11-27 00:10 | 理念


意味のある軽さ(4)
 一見すると軽い本のように見受けられます。「人は「動き」だ!」 馬渕哲・南條恵著 日本経済新聞社 という本です。ですがよく読むと、これ案外深い技術やなと、感動しています、私。
 先日神戸大学で加護野忠男教授と談笑していた折、小売り店舗のPOSデータ(店舗で商品を販売するごとに商品の販売情報を記録し、集計結果を在庫管理やマーケティング材料として用いるシステムで販売時点管理)は詳細のものが上がってくるが、店員が店舗内でどんな動きをしとるのかというデータ採取は皆無であると述べられていました。
 そうだよな、一口に接客というけれど、店の人の動きで、お客が店に長くいたり、買い物するかしないか随分影響受けるよなと感じました。人の動き探検団 をご覧下さい。例えば、相手に優しく振舞いたい時には、こんな、あんな、動きをすれば、効果的だと教えてくれます。これは気持ちとかではなく、結構スキルです。
 マクドナルドに代表されるマニュアル主義の店舗オペレーションからは出てこない発想です。規則やルールに則る動きは重い、と私には感じられます。ここで言う重いとは、手段の目的化という意味合いで、固定的なものというニュアンスで使っています。あるべき姿は、状況に合わせて適切で効果的な動きを各自が各自の判断で行なうということでしょう。そのためには、動きの基本体系を学び、我々のお店に必要な動きとは何かを要件定義しなくてはいけません。そしてその要件定義ごとに店員が動いているのかを観測する必要がありましょう。この意味で、必要なのは動きで、それは意味のある軽さなのです。 これ誰かビジネス化してくれないかな。ごっつい需要があると思うけれど。
by shamballa1 | 2005-11-26 00:09 | 理念


意味のある軽さ(3)
 やっぱり京都はいいなとつくづく感じます。私は人生の半分を大阪で暮らしていましたから、京都がどのような所かはもちろん知っています。ですが奥深さという意味においては、まだまだ見聞したいものが京都にはたくさんあります。
 大学院時代に京都の芸妓について少し調べたことがあります。祇園では、芸妓をお茶屋で雇用するのではなく、置屋に置いています。これはなぜか。芸妓さんは、文字通り芸こそ価値であって、もし格式のあるお茶屋に雇われていたら、芸がなくてもお客がついてしまうかもしれない。他方、置屋にいれば芸がないとお呼びがかからない。だから芸妓や舞妓を置屋に置いて競争原理を働かせ芸を磨かせることができるのです。
 ここにも 「意味のある軽さ」 の原理が活用されています。お茶屋は芸妓の雇用という重さを持たず、必要時に必要な芸妓の派遣を受ける。これは経営上何を意味するかというと、固定的な人件費が少なくてすむということです。固定費が小さければ、お茶屋の伸縮自在性が高まります。簡単に言えば、不況でお客さんが来てくれなくても、出るお金が少なく経営が楽になるということです。
 芸妓や舞妓(ご案内でしょうが、舞妓が育って芸妓になります。)からしても、自分に芸がなければ呼ばれないので、もちろん努力を惜しまず芸を磨きます。しかも一つのお茶屋に縛られない(何処で芸を披露するも自由)。これを経営学的に言うと、専門特化と競争が生み出す企業としての緊張感の高さは、仕事をする人々の緊張感をも高め、勤労意欲を高めることにもつながるのです。それだけではありません。専門特化した企業には、その仕事が好きだという人々が集まってくるので、自然と仕事意欲が高まるという効果もあります。
 話、変わりますが、私は冬の京都が好きです。しかも早朝の京の空気が。 凛とした緊張感 をたまに体感したくなります。比叡山あたりで。
by shamballa1 | 2005-11-25 00:10 | 理念


意味のある軽さ(2)
 家を建て住み始めた頃、周囲に一匹の妙な犬がいることに気づきました。白い犬なので、シロと呼んでいます。駐車場で昼寝していたり、裏のテラスから家の中を覗き込んだり、玄関口で尻尾を振って待っていたり、私の家が出来て興味を持ったのでしょうか。ところが、よく最近はいるなと思っていたら、しばらく姿を現さなかったりします。風来坊のようなヤツなのです。後にこの犬は雌で相当歳をとっていることがわかりました。
 シロには首輪がついています。よってどこかの家の飼い犬(だったのか、いまでもそうなのかは当時不明)で、なぜうろちょろしているのか、しばらく手かがリがつかめませんでした。近所に新居の挨拶をした折、あるお宅の飼い犬がシロだと分かりました。そこの人は、定期的にシロを放しているのだそうです。捨て犬かもと思ってミルクやチーズをやると飢えたように食べていたのに、なんだちゃんと帰る家があったのかと安心しました。
 シロは軽いヤツなのです。放されている時は、私の家の周囲はもちろん、周りに6,7軒の家があるのですが、あちらこちらに顔を出しているようです。ある日の平日の昼間、偶々家にいた私は、ヤツの行動を観察する機会に恵まれました。私の家を除く、その周りの6,7軒には大概玄関近くに番犬がいます。そしてこれも共通していますが、どの家の番犬も昼間はあまりやる気がないようでぐったり地面に伏しています。シロは、一軒一軒回って、ワンワン~ワン! と吼えてはまた次の家に行くのです。
 私には、シロが、私たちは番犬なんとちがうんか、もっと元気出して吼えろよ、さぁ、こういう風に、ワンワン~ワン! と言っているような気がしてなりませんでした。これは、チェーン店で一定のエリアを指導するスーパーバイザーみたいなもんだなと感じました。他の番犬たちはシロの吼える声に呼応するかのように、あちこちで吼え声があげています。偶然にもそこに郵便配達の人がやって来て、この盛り上がった番犬たちによる吼え声は一層大きくなったのでした。エリアの安全を守るという意味から、シロはバリュー出してるよねと私には思えたのです。
 隣の家のおじさんがぼやいています。あの犬は、うちの犬の餌を勝手に食べるんだと。本社配賦と思えばいいじゃないですか。うちもミルクやチーズを納めてますし。
by shamballa1 | 2005-11-24 00:10 | 理念


意味のある軽さ(1)
 前回のスレッドに続き、今度は 「意味のある軽さ」 という概念を考えています。
俗に、軽いつき合いと表現しますと、親密なつき合いと対比して、世間話をする程度・あいさつをする程度と言ったニュアンスになると思います。風変わりな私は親しい知人との議論の末、こう思ったのです。 “親密なつき合いだけど関係が軽い” という実体はないのかと。これがこのスレッドの問題意識です。
 「軽い」 の反語は 「重い」 です。 「重い」 には多くの意味があるのですが、私はその中の一つである、疲れ・病気・悩みなどで、重苦しく感じられる、という意味に着目しています。そうです、重苦しいとは実に憂鬱になる心情です。 「重い」 の他の意味には、ご案内の通り、重い任務とか、重い地位とかいうように、重要だ・大切だという意味があります。私の大きな問題提起は、人というものは、重要性を強調しすぎるあまりに重苦しい状況を引きずりこんでしまうのではないかということです。
 一方で 「軽い」 には、軽薄・軽率、慎重でないなどネガティブな意味合いがあるものの、疲れや悩みがなくて軽快に感じられる、とかポジティブな含みもあるのです。まさに良いとこ採りでしょうが、大切なことにコミットするのは尊いことですが、重苦しくならないように、軽快に事を運ぶことができたらいいなと考えています。
 以上が 「意味のある軽さ」 の概念のイメージです。これは深く考えていけば、案外会社経営にも、また人の個人の人生にも、大いにこの知恵は役立つものとして使えるのではないかと感じています。
by shamballa1 | 2005-11-23 00:10 | 理念


天祐を待つ(完)
 夜、近所を車で走っていたら、白い雲のようなものが出てきました。妻が、靄(もや)だねと言いました。靄? 私はこれは霧(きり)ではないのかと反論。同時に私の頭の中では、霞(かすみ)という言葉も浮かんできた次第。
 という訳で、靄と霧と霞は、どう違うのだということになりました。子供が入れば、ちょうど良い教育の機会となったでしょう。ですが今回は私たち夫婦が学ぶことになった訳です。
 まずこの自然現象を説明してみましょう。地表や水面の近くで水蒸気が凝結して無数の微小な水滴となり浮遊している状態を指すのだそうです。だから雲と同じなんだよなとまず学びました。気象観測では、霧と靄には定義があって、視程が1 km以下のものを霧といい、1 km以上のものは靄(もや)と呼んで区別するのだそうです。これは、発生状態では水滴が光を散乱するため、視程(見通すことのできる水平距離)が小さくなるためです。簡単に言えば濃いのを霧といい、薄いのを靄と呼ぶと覚えましょう。視程が1 km以下か以上なのかって言われても、その境のあたりは判断つきませんよね。だから霧でも靄でも正解なのです。
 さて霞ですが、霧と霞は同じ現象の別名なのだそうで、文学的には「霧立ち上る秋の夕暮れ」「春霞」というように霧は秋、霞は春に主に使われるらしい。霞は気象用語ではなかったのです。
 スレッド名と何の関係もなく終わってしまいしまた。おしまい。
by shamballa1 | 2005-10-23 00:10 | 理念

    

・・・
by shamballa1
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